2012年8月10・11
岡部明美ちゃんのワークショップ
伝説の三浦ワーク2泊3日が始まった
今日から2日間、この三浦で寝泊まりして自分と向き合う時間がはじまる
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窓からは海も一望でき、開放感もある良い場だ
何をするのかは全く知らされず、合宿気分の私は気分も高まっていた♪(笑)
先ずは、自己紹介をしてから皆んなで輪になりOSHO禅タロットを引く
私はFighting のカードを引いた
17年前からママになり、切った張ったの仕事をしてきてるので、その時も誰からと戦っている戦士なのかなぁ〜と思っていたら明美ちゃんが一言
「これは、誰かと戦っているんじゃなくて、きょうこちゃん自身が傷ついているのを周りに悟られないように、鎧を着て強い振りをしているのよ。これ以上傷つくのが怖いからね」と
この瞬間、心の中のどこかが緩み、ワーッと泣き出した私
図星だったのだ
当時、私は心が傷ついていた
その傷を認めずにいた
認めるのが怖かったから…
認めたら自分自身に負ける気がした…
認めたら今の私が私じゃなくなる気がしていた…
認めたら今まで歩んできた人生を否定してしまう気がした…
それはそうだ
20歳から夜の蝶になり、本名の阿部きょうこでは無く、お店での名前の「村上純」を演じていたのだから
演じていたなんて生易しいもんじゃない
村上純を創りだしたのだ
サバサバ・ハキハキ、姉御肌で、明るくて、割り切った恋愛感、時にはドライな一面もあり、社交的で負けず嫌い
多少の事では動じない真の強さを持ち合わせている
いわば阿部きょうこの良い部分だけをとった感じ
恋愛感以外はね(笑)
阿部きょうこで傷ついた心をオープンにしていたら、村上純なんてやってらんない!!
1997年頃、夜の世界は今よりも厳しかったし、お客様も飲み慣れていたし、遊び慣れていた
ちょっと不幸話しをすると「今時そんなの…フィリピン人でもないのに!」と怪訝な顔をされた
何でホステスをやっているの!?
と言う質問に素直に答えただけなのに…
1996年の夏
母は急病で旅立った
当時19歳だった私は、死に目にも会えず、久しぶりに会う息を引き取った母を目の前にして、本当に母なのか?何でこうなったのか!?
現実を受け止められずにいた…
当時17歳だった妹と祖母と父も深い悲しみの中にいた
そして私も妹も感じていた、もう阿部家は終わりだと…
職人気質だった頑固で人づき合いが下手な父を、文句一つ言わずに陰でずっと支えていた母
明るい笑顔と大きな愛で家族を見守ってくれていた最愛の母
その母が具合が悪くなり入院した次の日に危篤になったのだ
よほどギリギリまで無理をしていたのだろ…
誰にも心配をかけずに一人で我慢していたのだろう…
幼少期から私は父とは仲が悪かった
母が他界しても実家には帰らず、東京で生きていく覚悟を決めた
それは、経済的にも精神的にも自立を求められることだった…
今みたいに、インターネットも無ければ、東京に実家が無い田舎から出できて、高校しか出でいない人間が正社員で就職できるほど、世間は甘くはなかった
第二次ベビーブーム世代で生まれて、ちょうどこの頃にバブルが弾けたのだ
まだまだ余波はあったとは言え、日本は失われた20年に投入していく
手取り早く稼げるのは水商売だと思い、夜の蝶になったのだ
しかし、そんな事はお店に来ているお客様には関係のない事だし、辛気臭くなる話しは好まれない
そりゃそーだ!!
高いお金を払って、お客様も見栄を張る世界なのだから…
だから私は村上純を創りだした
これ以上、傷つきたくなかったし、自分の存在意義を否定されたくなかったから
全くの違う自分だと思えば、お客様から心ない事を言われようが、ただただ笑っていられるのだ…
でも後に、それが私自身を苦しめることになる
阿部きょうこも私だし、村上純も私には違いないのだけれども、村上純は痛み・苦しみ・悲しみもなどネガティブな感情や感覚を認めず、ただただ仕事に突っ走ったのだ
風邪をひいていても、熱が無ければお店に出勤し、飲みたくないお酒も飲んで、無理してでも笑顔を作って、体調が悪いことを悟られないようにする
プロでしょ!?とお客様に言われないよう、必死だった
今、思えばなんでそこまでしてまで必死だったのか!?
体調悪い時ぐらい休めば良かったじゃないって思うけど、当時の私には、私が生きていくのは、この世界しか無いと自分自身で思い込んでいたのだ…
続く。。。